ページ紹介その4 第一回文学フリマの頃


 ミツノです。上は、大澤信亮氏+杉田俊介氏+三ツ野の鼎談の一部です。このページが一番、鼎談の雰囲気を伝えているかと思って。

 とはいえ、僕の担当記事に関しては、もう27日のエントリでだいたい紹介してしまったので、記事紹介の代わりに、それに少し関連する事柄として、2002年11月の第一回文学フリマの思い出でも語ってみようかと思う。


 そう。僕は第一回文学フリマに行っていた。
 と言っても、そこで自分の同人誌を売っていたわけではなく、客として行っただけだが、当時僕は、鎌田哲哉という批評家の周りをウロチョロして交流させて貰っている学生だったので、その縁もあって行ったのである。

 ゼロアカ道場の文脈では、「佐藤友哉西尾維新舞城王太郎の同人誌が第一回文学フリマで売られた」ということばかりが強調されて、なんだか黒歴史化しているような気もするが、あのときの会場では、大塚英志さんと鎌田さんの公開討論が開催されていて、一応こちらのほうがメインイベントだったはずである。そこに「文壇アウトローズ」の福田和也さんと坪内祐三さんがプロレス的に乱入して、場を攪乱するなどという一幕もあった。

 「俺はSPA!とは仕事をしないことにしてるから、俺の写真は撮るな」
とSPA!のカメラマンに抗議している大塚英志さんの姿など非常に印象的だった。結局、SPA!の「文壇アウトローズ」の連載記事では、大塚さんの姿がカットされたかたちで、そのときの写真が載ったのではなかったかな。そしてその写真には、客席に座っている僕の背中も写っていたような記憶もあるが、定かではない。

 大塚英志さんは文学フリマの提唱者であったから良いとして、なぜその場に鎌田さんが呼ばれていたのかというと、その当時、鎌田さんは『重力』という批評誌を創刊して注目されていたからである。この雑誌は、執筆者自らが資金と編集作業を負担して独立採算を目指すという理念に基づいていて、それは、コミックの収益に寄生して赤字を量産する大手文芸誌を「不良債権」と呼んで批判していた大塚さんの主張、および「文学フリマ」の理念に合致するものだった。それで公開討論という運びになったのである。

 まあしかし、「文壇アウトローズ」の乱入ばかりが印象に残って、その討論でどんなことが話されていたのか記憶喪失気味なのだが、次の年に福田さんと坪内さんが『en-taxi』創刊に動いたのも、このような流れに刺激されてということがあったと思う。また、僕の記憶が正しければ、当初、大塚さんが「文学コミケ」という名前で構想していたのを、「コミケ」なんていうのは嫌だと言って「文学フリマ」にさせたのは鎌田さんだったはずである[要出典]。

 その公開討論が終わると、僕は鎌田さんのまわりをウロチョロし、『重力』のブースで売り子の真似事のようなこともしていたかもしれない。現在の僕が論壇系のトークイベントなどにあまり行きたがらないのは、その頃のことを恥ずかしく思っているからである。まあ、やってることは、いまでもたいして変わらないわけだが。

 その会場には、今回の雑誌で鼎談に協力して頂いた杉田俊介さんも大澤信亮さんもいた。杉田さんとは挨拶したはずだが、『重力』のメンバーでもあった大澤さんと、その当時すでに面識があったかどうかは思い出せない。また市川真人さんも『重力』のメンバーだったし、文学フリマの公式サイトを見ると第一回の主催は『大塚英志市川真人早稲田文学)・青山ブックセンター』となっている。とにかく、皆さん、あの場所にいらっしゃったわけだ。

 ところで、東さんがゼロアカ公式サイトの「檄文」で回顧していたように、あの第一回文学フリマ会場には東浩紀さんもいた。
 あの頃の鎌田さんは、『早稲田文学』誌上で「進行中の批評」という論壇プロレスの最高峰みたいな連載をしており、それは、おもに批評家を毎回一人取り上げて徹底批判するというようなものだったが、東さんも連載の第二回で俎上にのせられて、和解などとても不可能に思える言葉づかいで批判されていた。

 だから、当時の鎌田さんと東さんは非常に微妙な関係だったはずである。しかし、東さんがそのとき「どうも!鎌田さん、お久しぶり!」みたいな明るい調子で、『重力』のブースのほうに積極的に乗り込んできたのには驚いた。

 当時、文章などから伝わってくる東さんのパブリックイメージは、どちらかと言うと繊細なもので、現在のような豪傑風のイメージはなかった。だから、「ふーん、東浩紀ってこういう人だったのか」と僕は意外に思ったのである。そのとき、僕は東さんと少しだけ会話させてもらったと記憶している。そして文学フリマがお開きになると、東さんと鎌田さんは仲良さそうに飲みに行ってしまった。

 そして結局、僕はその数ヶ月後に鎌田さんに対して飼い犬が手を噛むようなことをして、シャレにならない事態を招いてしまい、それ以来、鎌田さんとの交流は途絶えたのだった。そのときの話は、今回の杉田さんと大澤さんとの鼎談でちょっと話題になってます。


 東さんは「檄文」のなかで、「この第4回関門は、ぼくにとって、なにかもういちど出発点に戻ってきたような感慨を与えてくれる」と書いていたけれど、僕にとってもまさにそうで、市川さん、杉田さん、大澤さんの協力を得ながら、「東浩紀ゼロアカ道場」として文学フリマで雑誌を売るというのは、「時代がひとめぐりをしたのだな、という感覚」を、僕にも与えてくれるのである。